私って共依存?

Canon EOS Kiss X9 (46mm, f/5.6, 1/80 sec, ISO5000)

「共依存」について。

共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平穏を保とうとする。

Wikipediaより

共依存にある状況では、依存症患者がパートナーに依存し、またパートナーも患者のケアに依存するために、その環境(人間関係)が持続すると言われている。典型例としては、アルコール依存の夫は妻に多くの迷惑をかけるが、同時に妻は夫の飲酒問題の尻拭いに自分の価値を見出しているような状態である。こういった共依存者は一見献身的・自己犠牲的に見えるが、しかし実際には患者を回復させるような活動を拒み(イネーブリング)、結果として患者が自立する機会を阻害しているという自己中心性を秘めている。

Wikipediaより

アルコール依存症について、

無料マンガ「だらしない夫ではなく依存症でした」が

SNSで話題になっていて、最近読みました。

その時は、大変だな、と思ったものの

他人事としてしか捉えていませんでした。

私は誰にも依存していないし、自立している。

そして誰からも依存されていない。むしろ寂しいくらい。

共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のことです。

たとえば――。
自分の価値を、周囲の基準だけを頼りに判断する。
自分がどうしたいかではなく、周囲の期待に応えることだけに必死。
他の人の問題を解決することに、いつも一生けんめい。

アスク・ヒューマン・ケアより

だけど、自分の価値を認めているか、というと。。。

人の目が気になるし、自分がどうしたいか?が全くない。

「あなたは何がしたいの?」という質問が大の苦手。

自分よりも他人の事に介入しがち。

より幸せになってほしいから、聞かれてもいないのに

情報を提供し、すべきことを提案し、

そしてしつこいと言われる。

あれ?私、共依存体質?

共依存―5つの核症状

共依存やトラウマの治療施設として世界的に有名な「メドゥズ」のプログラム・ディレクターであるピア・メロディは、共依存の「核となる症状」を次のようにあげています。
これはそのまま、アダルトチルドレン(AC)の課題でもあります。

1.セルフエスティーム(自尊心)の問題

自分が生まれながらに持っている価値を子ども時代に認めてもらえなかったため、人と比べて上か下かという外の基準を頼りに生きようとする。
内的な価値の手がかりがない。

2.境界の問題

子ども時代に自分をきちんと守ってもらえなかったり、親からべったりくっつかれたために、適切な境界線の引き方がわからない。
壁を作って孤立したり、境界がないまま相手に侵入され蹂躙されてしまう。

3.現実性の問題

自分をそのままの姿で認められないため、完ぺきならOK、少しでも間違うとダメ、といった白黒思考に陥る。
人間は間違うこともあれば弱いところもあり、感情も揺れ動くものだ、という現実を認められない。

4.依存の問題

子ども時代に自分のニーズが満たされなかったり、親が先回りして何でも与えてしまうために起きる。
「人に頼ることをせず、なんでも自分の力でやろうとする」か、「自分の責任で自分のニーズを満たせず、他人に頼ってしまう」かのどちらかになる。

5.中庸の問題

適度な自己表現やセルフコントロールが難しい。
自分の衝動や欲求を吟味することができず行動に移したり、がちがちに我慢して抑えすぎたりする。

アスク・ヒューマン・ケアより

私の場合、共依存の相手は「母親」・・であるようです。

共依存している例としては、

私が「出来ない子」であることで

注意を引く作戦が一つ挙げられます。

部屋の片付けが終わらない、掃除が下手、

〜しっ放し、など。

これは小学生の頃から自覚があって、

何でもやろうと思ったら出来るけど、

ちょっとだけ、終わらせずに置いておきます。

「しょうがないなあ」と母は私の世話を

してくれちゃいます。

母は出来ない娘のために世話を焼いて

役に立っている実感を得ます(ここは想像)

こういう行動を私が取るに至ったのは

私が「女で生まれたこと」にあるのではないか、と

昨日のカウンセリングで指摘されました。

私は初孫として、第一子として生まれ、

とても可愛がってもらって、愛情たっぷりに

育ちました。親子の仲も、家族の仲も良好です。

しかし、私は「女」として生まれました。

旧家である実家では、おそらく男児の誕生を

待ち望んでいたでしょう。そう、後継です。

女は第一子でも後継の資格がないのです。

物心ついた頃から、男女不平等を不満に思っていました。

お姉ちゃんとしての義務は強いられるのに、

長子として尊重されないのです。

後継の弟が2年後に生まれてからです。

祖父母と同居でしたが、一番良い席には

祖父、父、そして弟が並びます。

長女の私は、一番末席。

いや、あえて末席を選んで座っていた気がします。

誰かが席を変えてくれることを

期待したのかも知れません。

(誰もそんなことしてくれませんでした)

小さい頃から、自分の存在意義が揺らいでいました。

存在自体が薄っすら霧がかかっていた気がします。

そうだから、だと思うのですが、少し大きくなってから

よく弟をいじめていました。

憎たらしくて仕方がなかったのです。

何の悩みもなく幸せそうにのほほんとしている弟が。

私の苦しみなんて知る由もありません。

私はどうして意地悪をするのか?

意地悪をすることは諸刃の剣で、

自分を痛めつけていたように思います。

小さいころの私、寂しかったんだなあ。

そして今も、自尊心に問題があるんだなあ。

それらをどうにかして、私は私でいいのだ、

としていかねばなりません。